優しい唇

 さっきからペンが止まっているのは知っていた。
 彼の集中力はとても素晴らしく、集中している間にはどんな事でも覚えてしまうけれど、その分驚くほど短い間しかもたないことも。

「…センセ。
 俺と付き合おうよ」
「却下」

 俺は採点の手を止めず彼、自分の受け持ちの生徒の戯言を切って捨てた。
 少し厚めの唇を少年のように突き出して、彼はむくれてみせる。
 チラリとそれを確認した俺は、内心の溜め息を殺した。
 彼の名前は金子弘樹といって、陸上界のホープと言われていた。けれど、金子自身にはその気はなく、大学は普通の理数系を目指すと言って俺の部屋で勉強をしている。毎日幾つもの公式を覚え、次々に応用してみせるその頭脳に僅かばかりの嫉妬を感じつつ、教え甲斐のある生徒に満足していた、はずなのに。

「何で? 俺が男だから?」
「違う。生徒と付き合うほど不自由してないからだ」

 不意打ちのようにされた告白。『カレーが好き』、と言うのと同じ調子で、『センセが好き』とやられた。
 俺は無様に目を見開いて硬直する他に反応を返さなかった気がする。
 それだというのに金子は少し哀しそうに笑って、『俺なんか眼中にない?』と尋ねて部屋を出て行った。
 それから、毎日のように来る。数学準備室の、俺が独りになる時間帯を狙って。
 机を挟んだ向こうとこっちという距離を決して越えようとはせず、俺と共有する時間を愉しんでいる。内心がどうなのかは知らない。少なくとも、俺にはそう見えるように、振る舞っていた。

「…俺、生徒やめようかなァ」
「そんな理由で中退するような男と、俺が付き合うと思うか」

 自分の台詞の矛盾には気が付いている。どちらにしろ、金子を受け入れる気などないと。
 やっぱり金子は唇を尖らせて、女生徒にそれなりの人気を誇る綺麗な顔を歪ませた。子供っぽい仕草。そんな金子を、可愛いと思っていたのは随分前からの話。
 臨時採用で右も左も分からなかった俺に、さり気なくフォローを入れてくれていた金子。彼のおかげですんなりと高校生活に入り込む事ができた。先生方の間にも、居場所ができた。
 とても感謝していて、だから時間を割いて受験勉強の面倒を見てやっている。
 そう、俺にとっても金子は特別な存在で。
 きっと、金子もそれを知っているんだ。
 だが、その点には触れてこない。卑怯にもまともに取り合おうとしない俺を、責めもしない。ただ、俺が拒絶の言葉を唇に乗せる度、哀しそうな目の色で、おどけたように唇を突き出して。

「ちぇっ、つれないなァ」

 俺を許している、優しい唇。


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