キッシュは昼近くまで帰ってこなかった。
メグを捕まえてからの10時間近く、二人は語り合って過ごした。Jの状態や、メグの近況。世界の流れなども、メグに聞いて初めて知る事があった。
現在、ロワ・ジョーヌとフラム・ルージュの対立関係は悪化しており、もう間もなく開戦にふみきるだろうということだった。国対国というよりも大陸対大陸の様相を呈するこの戦争は、中央に反旗を翻そうとするフラム・ルージュの反乱として歴史書には記されることになるのだろう。
思い上がっている、とメグは吐き捨てた。
いくら国力があるとはいえ、軍事国家のロク・ブルウが中央に味方している以上、フラム・ルージュに勝機などありはしないのに。
その、ロク・ブルウというのがJやキッシュが暮らすこの大陸だった。一番の輸出品目が傭兵という出鱈目な国は、だが、常に続く戦乱の世の中では間違いなく強国だった。その国の商品の1つに、キッシュは登録されている。
だから、Jにとって国同士の争いがどうというよりも、キッシュが参加する戦争がどの程度の規模なのか、どれくらいで終結を見せるのか、キッシュが参加する側の勝率は高いのか、そんなことの方がずっと重要だった。
その事を隠そうともせずメグへと質問を重ねていると、不意に苦笑された。
チョコレート色の肌は彼の心境を分かり辛くさせていたけれど、どうやら呆れられているらしい。
Jは僅かに不機嫌に、眉間に皺を寄せその表情の解説を待った。
「アンタ、変わったな」
「……っは」
なんだそんなことか。
言い訳すらする気はなかった。たとえメグが以前の自分―他人を寄せ付けようとはしない、どこか利己主義でそれでいて自暴気味な自分―を好きだったとしても、別段それに合わせてやる必要など感じていなかったからだ。
そんなところは変わってないのになと呟いたメグは、でも、今のアンタの方が痛くないと柔らかく、そう、思いもかけず優しく笑ったのだった。
「俺たちは心配してたんだ、アンタはいつか、ポッキリ折れちまうんじゃねェかって。
アンタは確かにつるんでいた俺達の誰より強かったし稼いでいたけれど、いつだって危うさが抜けきらなかった。
誰かが見守ってやらないといけないんじゃないかと思わせていた。
…アンタにとっては、迷惑な話だろうが」
メグに聞かされた話の中で、一番驚いた。
まさか自分が、そんなふうに見られていただなんて。
だとすれば、己がキッシュに飼われるようになったのは偶然ではなく必然だったのかも知れない。常に庇護が必要に見えていたJには、しかし庇護できるだけの実力を持った者がいなかった。そして、出会ったのがキッシュだっただけだ。
悔しいけれど、とメグは視線を落とした。
「悔しいが、俺にはアンタを守るだけの力がない。
どうやら行く末を見守ることすら叶いそうにない。
…だが、アンタには幸せになって欲しいよ」
いつだってつまらなそうにしていたアンタが、キッシュについて話す時だけ生き生きしている。だとすれば、アンタの幸せは間違いなくキッシュって若造の隣にあるんだろう。
自分は絶望的な状態にあるというのに、メグはJの将来を心配してみせる。
値するような人間ではないという罪悪と、メグに対する情が、不意にキッシュに『お願い』をしてみようかという気を起こさせた。
もしかすると、キッシュの機嫌を損ねるかも知れない。けれど、聞いてくれるかも知れない。
少なくとも、ただメグをキッシュに引き渡すよりはメグが生き延びる可能性は上がる気がした。
早くキッシュは帰ってこないだろうか。
帰ってこない夜は初めてだったと、Jは漸く思い当たった。
□■□
ガチャリと、玄関の鍵が開く音がした。
反射的に玄関を振り返ったJは、メグに対して少し申し訳なさそうな顔をするとキッシュを出迎えに玄関まで向かって行った。そこは、重たい鎖が許す最大範囲ギリギリの場所。
「…おかえり」
「あぁ。
誰か、来てるな」
「…!? 分かるのか?」
「誰の家だと思ってる」
くしゃりとJの髪を掻き回したキッシュは、留守番ご苦労さんと笑みの形に唇を歪めて、まだ冷たいコーラのビンを手渡した。何度も再生され、最早元々は何色だったのか判別がつかなくなっているそれを手の中で弄びながら、キッシュの後をついていく。
「風呂場か?」
「…まだ、生きてる。
……なァ、頼みが、あるんだけど…」
おずおずと口を開いたJに、分かっているとキッシュは鷹揚に頷いた。
訝しむJに、さっきまでシルビアの所に居たからなと何の衒いもなく教えると、幾つかの紙袋をキッチンの台の上に置いた。渋い顔をしているJを促すと、風呂場へと足を向ける。
メグの濃紺の瞳は、真っ直ぐにキッシュを射抜いていた。
「お前、俺を殺しに来たのか」
「…そうだよ」
「敵わないとわかっていて?」
「……っ、アンタ、知ってんだろ!?
Jの敵、とりに来たんだよ!」
メグが叫ぶように口にした言葉。Jは目を見開いて、それから困ったようにキッシュとメグを見比べた。
「…だ、そうだ。
生憎とまだJは生きていてな、俺がお前に殺される理由はない。
俺は濡れ衣を着せられた腹いせにお前を殺すことも金に換えることもできるんだがな。
…J、どうしたい?」
「……殺さないでやってくれるか」
「それだけか?」
「…っ、に、逃がしてやって、くれないか…っ」
消えそうにか細い声がそう主張して、Jへの躾がどれほど行き届いているのかを確認させられる。メグは改めて、Jにとってキッシュがどれほど大きな存在なのかを知った。
返事をしないキッシュに、Jは少し怯えたようにその様子を窺っている。メグはどうなるのだろうか。自分は、罰せられるのだろうか。
「…やれやれ、世話を焼かせてくれる。
案外面倒なんだがな」
なぁ、シルビア?
誰も居ないと思っていた風呂場の扉の向こう、キッシュが声をかけた。
全く気配を窺わせずにそこに佇んでいたシルビアは、クスクスと笑い声を立てて三人の前に姿を現す。
「…!?」
「やぁMr.J。
君は自分が結構な人気者だって事を、自覚しておくべきだと思うね」
「え」
「君の敵を討ちたいと思っている輩は、存外に多いって事さ。
さてキッシュ、彼だけを特例で、捨ててくればいいんだね?」
「え、まっ…、捨てるって…?」
不安そうな面持ちで聞いたのはメグではなくJだ。
シルビアの口にする『捨てる』がどんなものなのか分からない。
「別に、バラして捨てやしないから安心しておくれよ。
ただちょっと、生活するのには不便な場所に、引っ越して貰うだけさ」
「…え」
キッシュを見やるJは、もっときちんと説明してくれと訴えている。
俺も甘いなと苦笑して、キッシュはJにも分かるようにと口を開いた。
「俺を狙っても生きて帰れると思われては煩わしいからな。
コイツには表向き、死んで貰うってことだ。
勿論俺は慈悲深い、幾つはの選択肢ぐらいは、用意してやる」
キッシュが一見穏やかな笑みで出した選択肢は、『ロク・ブルウの最果てで静かに暮らす』『フラム・ルージュで傭兵として過ごす』『ロワ・ジョーヌで自力で生計を立てる』の三つだった。
「勿論、今すぐ剣の錆になるという選択肢もあるがな」
平然と四つ目の選択肢を挙げるキッシュに、冗談じゃないと首を振る。
メグは、チラリとJを見てから、今後の生き方を決めた。
「…俺は、フラム・ルージュで暮らす」
「何でだ…?
一番、死ぬ確率が高いのに…」
解せないと言うJに、男のプライドってやつかなと嘯くように笑い、静かにキッシュを睨み上げる。
メグの選択肢のみで彼の心中を悟っていたキッシュは、ニヤと笑うと、シルビアに手配を頼んだ。
肩をすくめて部屋を出て行くシルビアは、どうやらこの為だけに呼ばれていたらしい。既に、キッシュには情報は回っていたのだ。
「当面の生活費くらいは、くれてやろう。
お前の持っている金は、全て水泡に帰したはずだ」
残すべき相手など、いないのだろう?
尋ねるキッシュに、聞いてどうするのだとキツイ眼差しを向けた。
「いるのなら、手配くらいしてやる。
…Jが、それを願っているからな」
「…!」
メグの視線を受けて、Jは居心地が悪そうに目を逸らした。
それくらいの、好意ぐらい抱いたって悪くはないだろう。命懸けで仇討ちなどを考えてくれた相手だ。
「…参ったな…。
俺は卑小な男だな。
構わない、金は全て、Jにやってくれ」
どうせ向こうじゃ使えないと言うメグには、盛大な自嘲の気配。
分からないと眉を寄せるJに、キッシュは教えた。
「…コイツは、俺のライバルに立候補したってことだ」
言って、先にキッシュは出て行った。
フラム・ルージュの傭兵になるとは、そういうことだ。
それなのに、Jはメグの身を案じてくれている。恐らく、生涯でひとりとなるだろうパートナーを、殺してやろうと目論む男の身を。
「…それはそれ、だろうよ。
お前も馬鹿だな、キッシュに敵うわけがないのに」
「…精々足掻いてみるさ」
強がりだと分かる笑みがJに向けられ、それに気がつかない振りでJも笑みを返した。
キッシュに呼ばれ、風呂場から出て行こうとする。
その背を、引きとめた。
「…J!」
「なんだ」
「何があっても、死なないでくれ。
俺が頑張る意味を、なくさないでくれ」
真摯なメグの眼差し。
メグには分かっていた、キッシュのような男でも、戦場では決して死と無縁ではない事を。
そして、キッシュを失った時、Jが取るだろう行動も。
「……努力する」
儚く笑ったJの笑顔。
目に焼き付けるには、あまりに切なかった。
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