シルビアが姿を消して30分も経った頃、窓の下に魔道自動車が止まった。ロク・ブルウでは電気の代わりに魔道を用いる。魔道自動車というのはマジックソリッドという液体燃料を燃やして走る、自家用車だ。
魔道の及ぶ範囲は国中の全てであったが、その効力がより発揮されるのはディーシーと呼ばれる首都と、各都市の中心地だ。生活のランクが上がれば上がるだけ、使える魔道の量も増えてくる。魔道自動車に乗るためには、生活ランクS、即ち最高ランクを頂く必要がある。
車から出てきたのはダークスーツを着た人間だった。Jが上から見て分かったのは、それくらいだ。
「俺、魔道自動車って乗ったことねーなー…」
窓枠に座って下を見ているJを振り返って、キッシュは眉を寄せた。
先刻、メグという男と別れを言ってから、どうやら少し塞ぎこんでいる。キッシュは昼食を作る手を止めて、Jの傍に歩み寄った。
「大丈夫か?」
「ん…、大丈夫、平気だけど…」
ちょっと、疲れた。
キッシュへと凭れかかり、Jは眼を閉じた。
そういえば、彼は昨日寝ていないのだったと思い出す。真夜中に侵入してくるのが定石の暗殺者は、いつだってこちらの都合を考えない。
翌日どんな予定があろうと彼らにとってはどうでもいいことだし、そもそも殺されたくもないし殺したくもないと思っている人間の心理って言うものを心底から理解しているとも思えない。
そのくせ、死にたくない助けてくれと喚くのだから始末が悪い。尤も、生きたいと願うのは生き物の本能らしいから仕方がないのかもしれないが。
「少し、寝るか?」
「いや…、メグを見送りたい」
顔を見るまで思い出しもしなかった相手なのに、二度と会えないのかと思うと名残惜しいもんだな。
不思議そうに呟いたJの頭を抱えてやって、そんなモンだろとキッシュは微笑んだ。キッシュとて、同じようなものだ。戦場で、繰り返し会える相手、会えない相手。夜にはまた会えるのだろうかと思いながら言葉を交わす。自然と、親しくなるのを避けてしまう。これは何度も戦場に赴くことで覚えた自分を守るための術。別れに慣れることはできなかったから、出会いを浅くした。
それはきっと、Jも同じだったはずなのに。
「…別に、メグを特別に思ってたってわけでもないんだ。
ただの、酒飲み仲間ってぐらいで」
…なんで、俺の敵なんて…。
きつく握られた拳が痛々しくって、キッシュはその手を握った。
「理由なんて、必要はないんだろうよ。
あの男は、お前に惚れていた、それだけの事だ」
「…俺も、いつか…」
「止せ、お前に特定の憎むべき相手なんて出来ないさ」
わかっているんだろう?
静かなキッシュの声に、分かっているとJは頷いた。
馬鹿げたことだ、敵討ちなんて。キッシュは納得ずくで、戦場に向かうというのに。
「さて、そろそろ来る頃だ」
「…? 誰が?」
玄関から聞こえた、ノックの音。キッシュは、少し待てとJの頭を撫でて客を迎えに行った。
「…わざわざ悪いな」
「そうお思いなら、ウチの社長を連れ歩かないで下さい」
「俺はついて来いとは言ってないぞ? 誰か貸してくれと頼みはしたが」
「社長が貴方の事を好きなのはご存知でしょう。
一緒にいられる機会を、別の人間に差し出したりするモンですか」
昨日も聞いた男の声だ。Jは下肢を覆うシーツをしっかりと撒きつけて、男を迎えた。
「今日は、ご機嫌如何ですか?
…あぁ、睡眠が足りていないようですね。
先ほど生のストロベリーが手に入ったんですよ、宜しければどうぞ」
「あ…、有難う」
にこやかなラウの挨拶に何か圧倒されながら、Jは白い陶器の皿を受け取った。
「お好きなものを選んで下さい」
「……?」
言われるままに中の苺を一つ摘んで、ラウに差し出した。
受け取り、口に運んだラウは、ニコリと笑ってバスルームへと向かう。
困惑の視線をキッシュに向けると、毒なぞ入れてないって事だと肩を竦めて、ラウの後をついて行った。
慌ててその後を追ったJは、ドアの枠に手をかけて中を覗き込んだ。
「さて、君も面倒をかけてくれますね。
社長が丁重に扱えと仰いましたから、道中不自由はない様に善処します。
質問、要望等あればお早めにどうぞ」
澱みなく口にされた言葉は既に用意されてあったもので、彼にメグとコミュニケーションを取ろうという意思があるのかどうかは、甚だ疑わしかった。
少し呆れた表情でJはラウを見て、それから平然としているキッシュに目を転じた。
彼が、自分の命を奪いに来た者に対して、どんな眼差しを向けるのかが気になった為だ。一度は、自分も刃を向けた人間だ。気にならないわけがなかった。
「別に…。
Jと二人きりで話したいとは、思うけど…」
「Mr.Jとですか?
そう仰ってますが、如何なさいますか?」
人を食ったような笑みがキッシュに向けられて、ひょいと竦められた肩がそれを肯定した。
ラウとキッシュが退き、バスルームにはメグとJのみが残された。
「…なんだ?」
「……俺に、触ってくれないか」
「…はァ…?」
いっそ話をするとは言いがたい望みに、思わず素っ頓狂な声を上げる。
外から、どうしたと声をかけられて、口篭った。
「…キッシュに、訊いてきていいか?」
「どうぞ」
それは承知の上だと言うメグの態度に、彼の意図するところが読み取れずただ尋常ではない頼みだということだけがその理解の及ぶ範囲。
嘗ての自分ならば気色悪いこと言ってんじゃねーと一蹴しただろう行為も、キッシュとの生活を経て今では違った一面を垣間見る事が出来る。
人の心理に、少しは敏感になったということだろうか。
「キッシュ、メグが、俺に触ってくれってよ。
…さ、触ってやっても、いいか…?」
「お前、自分がどういう立場なのか分かってるのか」
「…っ、ご、ゴメ…っ。
断ってくる…っ」
慌てて踵を返したJの腕を、キッシュが捕らえた。
弾かれたように振り替えるJに、キッシュは溜め息を聞かせた。
「…あいつに、抱かれるなよ」
「え…」
「主導は自分でとって、尻は死守しろと言ってる。
30分だ、それ以上は待たない」
「わ、わかった」
淡々と言われているのに、どこか無理をしているんじゃないかと思える。
ならば初めから許可など出さなければいいとJは思ったが、もしかすると、自分に対する負い目から自由を与えてくれたのかも知れない。
自分を置いていこうとしているという、負い目から。
□■□
キッシュに言われた事をそのまま伝えたJは、メグから思いもよらない反応を得た。
セックスできるんなら、最初から抱いてもらうつもりだったと。
ひどく楽しそうに笑って、あんたキッシュに抱かれてるのかと。
「…っ、俺の方が、飼われてるからな…」
「ふーん? 流石キッシュとも言えるけど…。
そんだけイイ体してるのに、キッシュに悦ばされてるのか…」
心底感心したというメグの調子に、視線を泳がせた。
Jとキッシュの体格差ならば、確かにJが抱く側だと思っても仕方がない。しかし、当然のようにキッシュに犯されたJは、最初から自分は抱かれる側の人間だと刷り込まれてしまっていたのだ。
同性間のセックスに定型といえる形があるのかはJには分からなかったが、一般の男性にとってはJの身体に誘惑されるという事態は、まずそう起こるものではない筈だ。
メグの指摘で、初めてそのことに気がついた。
気がついて、ならば自分が男を抱く側に回れるかとなると案外これもスムーズには行かないようだった。
受動態で受け入れていたセックスでは、そこにJの熱があろうがなかろうが関係はなかったのだ。もしこれからメグを抱くのだとすれば、このチョコレート色の身体に欲情しなくてはいけない。見事に実用的な筋肉で構成された身体には女性的なラインなど微塵もなく、どこを足懸かりにメグに感じれば良いのか、わからなかった。
「…Jって、実際全然男に興味がないんだろ?」
「あぁ。
…キッシュだけが、例外みたいだ」
「そうなんだろうな。
…じゃあ、俺がして欲しいこと言うから、それだけ、してくれるか」
「…わかった」
Jとのやり取りの中、切なそうに寄せられた眉。メグの想いに応えることは出来ない。言外のJの言葉に、仕方がないんだと諦めをつけた瞬間だった。
「キス、して…」
ダークチェリーの唇から、ストロベリー色の舌が見える。Jはゆっくりと上体を傾けた。
舌に舌を絡めて、キッシュにされた事を思い出しながら。嘗て女性相手にセックスくらいしていたのに、頭に描くのはあの冷酷で甘いキスだけだ。
キッシュの動きをトレースしたならば、メグを高みに追いやることくらい、可能かも知れない。
Jは掌を、メグのシャツの下に滑り込ませた。
「…ンっ!
ふ…、J…っ?」
「やれるだけ、やってみる」
「は…っ、ぅ…っ」
尿意を訴える度にズボンを着脱させる事が面倒になっていた下肢にはJと同じくシーツが掛けられているだけで、腹筋から下腹へ、また、ブラックチョコレートの淡いへとJの手が動いていく。
直接の接触がないにも拘らず、ゆるく頭を擡げているそこに驚いて、チラリとメグの顔へと視線を走らせた。
「……っ、俺、Jが好きだって言ったろ?」
「…あぁ」
触られて勃起するぐらい許して欲しいとメグは顔を歪め、まるで泣き出しそうな表情を作る。
それを見られたくないのか、精一杯Jから顔を背けていた。
「……見ねーよ、嫌なら」
撒きつけたままだったシーツを床に落とし、Jはバスタブを跨いだ。メグの腹の上に座り込むと、その首筋に舌を這わせる。
喉の奥で、メグが啼いた。
ほらみろ男の喘ぎなんてちっとも楽しいもんじゃねェ。
今は姿が見えないキッシュに向かって内心で語りかけると、それでも、と思った。
それでも、自分を求めているメグの姿を見ているのは、そう気分の悪いものじゃない。
大腿の上に移動し、雄を扱いてやる。
鋭く息を吸ったメグは、悲鳴が詰まってしまったかのようにただ口を開いていた。
ビクビクと、腹筋が痙攣している。
「…イけよ」
「…あっ、うぁ…!」
吹き上げた白濁は色の濃い肌に綺麗に映えた。
身を捩り荒い息をつくメグの唇に、もう一度キスをしてやる。
潤んでいる瞳は、快感の為か、それとも別の事情からか。
「…腹、拭いてやるから」
それから着替えろというJに、メグは何かを言いかけて。
Jのすまなそうな顔に、言葉を飲み込んだ。
「悪ィ、ここまでだ」
「あ…、分かって、る。
ありがとな、アンタは、ヘテロなのに…」
「お前だって、そうだろ」
ふわりとシーツがJの脚を隠した。
歩く度にジャラリと鳴る鎖も、その布の下だ。
こんな状況でなければ、あり得なかった会話。
伝えられただけでも僥倖だと、そう思えとの神の啓示だろうか。
Jに身支度を整えられながら、メグは必死で、涙を堪えていた。
せめて、Jの中に残る最後の表情が、笑顔であるようにと。
「…俺、お前のこと、結構気に入ってたんだぜ」
だから助けて貰ったんだ。
ポツリと落とされたJの本音は、いつまでもメグの耳に残っていた。
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