結局男はキッシュとひとしきり喋って、さっさと立ち去ってしまった。
背の高い彼がダークスーツに身を包んで、名残惜しそうにキッシュを振り返る。
苦笑したキッシュは数歩近寄って、優しいキスを男に与えた。やや男より背の低いキッシュは、男の首に手を掛け引き寄せるようにして唇を合わせる。
蕩かされるのは男の方、一見しただけでは、逆のように見えるのに。
Jよりも年下で、でもキッシュよりは年上らしい男。
濃い色のサングラスを装着して、男は部屋を出て行った。
『また来るよ』と言う台詞と、気障な投げキッスをJに残して。
「…なんだったんだ、あいつは…」
「俺の悪友さ。勿論、そういう関係だけじゃない。
仕事の時のパートナーだった」
「…だった?」
「なんだ、気が付かなかったか。
アレは、右肺をやられてる。傷があったろう」
「……分からなかった…」
眉を寄せたJにキッシュは肩を竦めた。
傭兵という仕事は、いつだって死と隣り合わせなのだと男の体は語っていたのだ。それに、気が付かなかった。綺麗な手と、鍛えられた体。あのアンバランスは、過去と現在が綯い交ぜになっていた為か。
「アイツはハンディキャップを負っている事を悟られるのを嫌う。
だから人前で服を脱ごうとしない。
…お前に、何か思うところがあったという事だろう」
蒼い目が悪戯な色を浮かべている。
けれど、Jは戸惑うばかりだ。お互いを知れるほどには、何も喋っていない。
男はJがキッシュの持ち物に成り下がったということと、Jに関する過去のデータを知っていただけだ。J自身に関する何かを得たわけではないのに。
「人の上に立つというのはな、相手が何者なのかを攫めて初めて可能なことなのさ」
キッシュはくしゃりとJの髪を撫でて、ベッドに馬乗りになった。
未だキッシュは半身に何も纏わないままだ。丈の長いワイシャツが辛うじて、Jにとっての凶器を覆い隠している。
思わずずり下がったJの恐怖心はしっかりとキッシュに伝わった。僅かに、キッシュの口角が上がる。
「…っ」
「怯えるな、逆効果だ」
自分で言うなっての!
喉元まで出かかったJの言葉。危うく飲み込んで、両手でシーツを握り締めた。さっき反応してしまった、自分の体が恨めしい。
そもそも、なんだって男同士のセックスシーンなんかを見て興奮を覚えてしまったのか。初めは間違いなく、嫌悪を感じていたのに。
「悔しいか」
「当たり前だ…っ」
耳元に落とされた囁きに、思わずキッシュの胸を押し返した。
男の、匂いが移っていた。
キモチワルイ。
初めてそう思った。
「…ぇ……」
知らず口から零れた音。Jの右手が、自身の口元を隠した。
初めて、キッシュを、キモチワルイと。
「何で…?」
「どうした、顔色が…?」
気分でも悪いのかと額に手を当てられた。
「触んな!」
キッシュの手を跳ねつけた。パァンッと乾いた音が空気を裂いた。
驚いているのは、キッシュもJも同じ事。
そんな事をするつもりはなかった、ヤられたいとは一度も思いはしなかったが、キッシュ自身を拒絶するような真似は、一度もしなかった。
すぐに己の失敗を悟ったJは、怯えきった眼差しでキッシュを見上げて。
「…何故だ?」
「し、知らねぇ…っ。
イヤだ…っ、止め…!」
再び伸ばされた手に身を竦ませ、両腕で頭部をガードした。一方的な暴力から、身を守ろうとする反射行動。
だが、キッシュはJをそんな風に扱ったことはなかったし、今後もそんな予定はなかった。
殴る蹴るなど、プライベートに持ち込みたいものではない。
ただ、強張った表情の意味を知りたかっただけだ。
「…J? 俺は何もしない。
少なくとも、暴力を行使する気はない。お前がどう捉えているのかは分からないが。
何をそんなに恐がっている」
穏やかなキッシュの声。
恐慌していたJはやがて平静を取り戻し、それと反比例するように体の震えは酷くなった。
「…俺、ガキの頃になんかあったの、かも」
か細い、消えそうな声が教えたJの一部。
幼少時を覚えていない者など、掃いて捨てるほどいる。とりわけ、Jやキッシュが住む世界では、まともな神経ではやっていけないから。バランスをとるために忘れるのは、人間の防衛本能だ。
キッシュは黙って頷いて、原因はなんだと先を促した。
「多分、お前以外の、匂い。
キモチワルイ…」
不特定多数を思わせる混ざった体臭が、Jの悪夢を揺すり起こそうとしている。遠い昔に封印したはずの、Jの陰。癒される見込みのない、厚く覆い隠されてしまっていた傷。
輪姦では反応しなかったそれは、特定の相手が不特定を相手に非道を働いていた事を示している。
「…シャワーを浴びてくる」
話はそれからだ、とキッシュはドアの向こうに姿を消した。
その背中を見送りながら、自分の『主人』は暴君ではないのかも知れないとJは考えを改めようとしていた。
不意にフラッシュバックした黒い大きな影。Jの記憶にないそれはしかし確かに経験をしたのだと訴えている。嘗て、Jの身に起こった何か。
Jにとって明らかに鬼門であるその記憶は、思い出そうと努めればわれそうに響く頭痛と呼吸器の不調を呼び込んだ。体を丸めて、苦しさを堪えようとする。
「…タスケテ…」
ヒュウという呼吸音の合間に漏れた声。掠れた音は昔自分の胸に渦巻いていたそれと酷似していた。
「キッシュ…、タスケ…」
息が、出来ない。胸が苦しい。
何故か、キッシュならば自分を救ってくれると思えた。
得体の知れない発作を治めてくれると。
「…! J!
どうした、しっかりしろ!」
シャワールームから出てきたキッシュは、水滴を纏ったままJの傍に駆け寄った。
蹲るJを抱き起こして、直接呼気を吹き込んで。
「…ッゲホっ…!」
漸く体内に取り込まれた酸素はほんの僅かな時間のうちにJにとって侵入者となり果てて、ひとしきりJを咽させた。
涙の浮かんだ目を拭おうともせず、必死でキッシュに縋りつく。
キッシュの銀の髪からぽたぽたと冷えた水が落ちていた。
「…大丈夫か?
心配ない、俺がいる」
俺に襲われる以上に酷いことなど起こりはしないさと、冗談めかした柔らかな声が混乱したJの思考を宥めていく。
お前を脅かす権利は、自分以外は持ち合わせていないとキッシュは約束した。
Jには覚えのない、嘗てJを脅かしていた他人など、ここにはいない。
抱き返すキッシュの心音は全く平静で、その心音に合わせるようにJの気持ちも落ち着いてきた。
「…よし、止まったな」
「え?」
「なんだ、自覚はなかったか。
酷く震えていた。憐れな程に」
キッシュはそう言いながら、まだJを抱いたままでいてくれた。
早く放してやらなければ、キッシュが風邪をひいてしまう。
そうは思えども、またあの苦しさに見舞われるのではないかと思うと離れられずにいる。
「俺はお前の命を預かっている。
相手が病気だろうが事故だろうが、勝手にさせるつもりなどない」
今朝までのJだったならば、なんて言い草だと怒髪天を衝いていただろう横暴な言葉。
だが、一度キッシュを自分の庇護者だと認識したJにとって、これ以上安心できる言葉はなかった。
徐々に、その体から力が抜けていく。キッシュとJの間に隙間ができる。
ほら、大丈夫だ。
完全に二人の間には距離ができて、それでもJが再び呼吸困難に襲われることはなかった。
「…ありが、とう…」
「気にするな、俺はお前を、俺以外のものから守ってやる」
それはキッシュの陵辱者としての自覚が言わせた、矛盾を孕んだ宣言。
低く、Jは笑った。
それは、Jがキッシュに囚われて以来、初めて見せた穏やかな笑みだった。
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