BLUE-GATE 4

 Jがキッシュに信頼を抱いたその日、キッシュはJを抱かなかった。
 連日キッシュの下に組み敷かれていたJは、そのことに不安を覚えながらも、久しぶりに穏やかな眠りに就いた。
 キッシュはベッドではなくソファで寝ている。何故と訊いたら『セックスしないときは一人で寝るんだ』という答えが返った。
 そのとき初めて、今日はしないんだとJは理解して、同時に残念に思う自分に気がついた。そんな風に思ったのは、当然ながら初めてで。狼狽はあっさりとキッシュに伝わったのだろうが、主はゆったりと笑ってJの額にキスをしただけだった。

□■□

 ジャラジャラと鎖を引きずって歩く。結構な重さのあるそれのせいで、足首は赤く擦り剥けてしまっている。気がついたキッシュがサポーターを巻いてくれるようになった。おかげで随分痛みは緩和したけれど、妙な歩き癖だけは残ってしまった。
 Jは、少し左足を引きずって歩く。鎖を運ぶ労力を極力減らす為に、左足を浮かさないで歩行するからだ。それを見てキッシュは時々眉を顰めるけれど、何も言わなかった。
 Jは当然ながら、キッシュも殆ど家から出なかった。時々ふらりと消えては手に買い物袋を抱えて帰ってくる。入っているのは食材とブランデーばかりで、一度Jはコーラが飲みたいと言ったことがある。そのときは何も言わなかったキッシュだったが、次からそれも姿を見せるようになった。

「…なぁ、相手しろよ」

 Jが手にしているのはJの唯一の持ち物である銀色のナイフで、数秒の沈黙の後ポケットからナイフを取り出した。パチンと音を立てて飛び出した小さなそれは、Jの獲物に対して随分と心許ない。けれど、Jはそのナイフが自分を追い詰めるだろう事を知っている。知っていながらもJは果敢に挑んでいった。どれだけ持ち堪えられるか。キッシュを相手に、ナイフの腕を磨いていくつもりだった。
 これから先、いつキッシュに放り出されるか分からない。そのときになって体が鈍っていたと気付いたのでは遅いのだ。自由を取り戻した時、食べていく為には仕事をしなければならない。ただでさえ体力勝負は難しくなる歳に差し掛かり、Jは自分の将来に不安を抱いていた。

「ほら、右だ。今度は左、おっと、そんなスピードじゃかすりもしないぞ」
「…っ、くっそ…っ」

 ひらりひらりと舞うように動くキッシュに、揶揄われているような気分になる。だが、キッシュがJの不安に気がついていて、相手をしてくれているのは間違いがなかった。キッシュ自身には、こんなトレーニングは必要ないからだ。買い物に出かけた帰りには、血の匂いをさせている事が多かった。返り血が着いたのだと迷惑そうな顔で言うと、無造作に風呂場の桶に突っ込んでいた。キッシュにとってそれほどに、命を狙われることは日常だった。

「…っ、わ、あ!」
「おいおい、突っ込んできてどうする」

 呆れたような台詞、キッシュのスピードに追いつけなくなったJは、足を縺れさせてキッシュに向かって倒れこんだ。
 危なげなくキッシュはJを抱きとめ、体勢を整えるのを待ってやった。

「…今日は終わりだ。
 風呂に入って来い」

 不意にキッシュに命令され、Jは戸惑った。
 今までになく、厳しい表情をしている。

「…キッシュ?」
「何でもないさ、心配するな。
 ほら、冷める前に入ってしまえ」

 再度促され、渋々従って。
 投げ渡されたのは黒いワイシャツが一枚きりだ。相変わらず露出度の高い格好だったが、一ヶ月が経つ頃には慣れてしまった。性的な接触も一切なくなり、平然と大立ち回りもできるようになっている。こんなものに適応してどうするのだと、苦笑を禁じえないJだったが。
 あの日以来、キッシュはJとベッドを共にしなくなった。必要以上の接触を避けられ、同居人としての扱いを受けている。とはいえ、キッシュにとってJはペットであることに変わりはないらしく、家事を求められることもなく、今のところその役どころは話し相手に留まっている。最近、Jはすすんで台所に立つキッシュの傍でその仕事を見つめていた。料理の一つでも覚えれば、多少は役に立つかも知れない。

「…なんだかな…」

 キッシュに殺されかけた晩、無理やり拓かれた身体。あのとき、絶対に心は許すまいと決めたはずなのに。今となってはどうだ、キッシュの気を惹こうとしている自分がいる。
 そもそも、キッシュにとって自分はなんなのか。何の為に自分を繋いでいる?性欲解消の道具として飼われたのだと初めは思っていた。事実、最初の三日間、それを裏付けられるほどにずっと嬲られていたから。
 なのに。
 本音を言えば、Jはキッシュに触って欲しかった。プライバシーの一切ない監禁状態では自分で抜くわけにもいかず、いい加減溜まっていたのだ。風呂場すら、鎖のおかげで完全に戸を閉めるに至らない。流石に朝立ちするほど性衝動の強い年頃ではないが、まだ充分に精力の余っている歳だ。寝苦しいと思う夜も、正直あった。
 Jの疑問はキッシュの下半身事情にも及んだ。あれほどJや友人を泣かせていた性欲は、今はどう処理されているのだろう。
 もしかしたら、買出しに行ったついでにその処理も済ませているのかも知れない。雰囲気にも一切匂わせないキッシュなので、Jが正確な答えを得るためには本人に確認する以外方法はないのだが。
 頭を振って思考をやめると、Jはそろそろ上がろうと立ち上がった。
 そのとき。

「ヤッ、ヤメ…ッ!
 タスケ…!!」

 派手な音と、知らない悲鳴。
 思わず硬直したJは、声をかけることもできず息を潜めて成り行きを窺っていた。

「ふん、助けろ、ね…。
 俺を殺しに来ておいて、お前はそのざまか」

 冷ややかなキッシュの声。Jに向かって発せられたことなど、一度もない。ナイフを向けていた時でさえ、もっと柔らかな声だった。
 今、命を絶たれようとしている者と、自分の差は一体なんなのだろうか。

「…無様だな。
 その上、弱く、醜い」
「…ヒ…ッ」
「そこから消えろ。
 上手くすれば、生き延びられるかも知れんぞ?」

 ガラガラと、窓を開く音がした。
 無茶な、ここは7階だ。そんなところから飛んで、生き延びられるとは思えない。

「それとも、一息に殺してやろうか?
 …早く選べ、時間がない」

 時間がない。
 何のことだろうかと首を傾げたJだったが、もしかすると自分が風呂から出てくる事を指しているのかも知れないと思いあたった。
 Jだって殺し屋という仕事をしていたのだから、別段死体の一つや二つ、珍しいものでもないというのに。
 全く、保護者気取りでいやがる。
 Jは声を殺して苦笑した。どちらが年上なのか、分からない。

「ああもう、鬱陶しい奴だ。
 床を汚されるのは不本意なんだがな」

 どうやらその場で止めを刺すことにしたらしい。派手な哀願の後に、音がなくなった。
 …今出て行ったら、死体と対面する羽目になるのか。
 僅かに眉を顰めたJは、ずっとこんな所にいては風邪をひくしなと諦めてシャツを羽織った。髪から落ちる水滴をタオルで拭いながら、扉を開く。

「…へぇ、綺麗なもんだ」
「……J。
 すまないな」
「何が?」
「気持ちのいいものじゃないだろう」

 キッシュの謝罪を軽く笑って、別に気にしないと手を振る。確かに自分もこうなっていたのかも知れないと思えばぞっとしないでもないが、しかしそれは仮定の話に過ぎないのだから。今現在、Jはキッシュに飼われ、不自由と引き換えに気楽な生活を送っている。
 殺し屋の死体くらい、どうという事はなかった。

「これ、どうするんだ」
「引取りに来て貰う。専門の解体屋がいる」

 闇稼業には色々な職業がある。大方、臓器の売買でもやるのだろう。

「だが、それも明日の話だ。
 今夜は一晩、そこに転がしておく」
「げぇ、それはまた…」

 言葉をなくしたJに、だからすまないと言っているとキッシュは肩を竦めた。
 そのうえ、風呂に入ると告げてJを置いて行ってしまった。
 目を見開いたままの死体、Jは新聞紙を掛けて、その姿を隠した。
 死体と一夜を過ごす。幼い頃には度々あったことだ。知らぬ間に、隣にいた仲間が息を引き取っている、それは最早慣れるより仕方がなかった。悲しさよりも、仲間が死んだせいで自分にかかる負担を思い、怒りを抱いていた。
 それは殺しの仕方を習い始めた頃の記憶のはずだ。
 家族を失い、生きる術を持たなかったあの頃。しかし、一体何にそんなに怯えていた?
 自分を育ててくれた恩人に対して?夜になるとアルコールの匂いをさせていた彼は、昼間は厳しく殺人方を教え込み、夜には優しく飯を食べさせてくれていたはずだ。

「あれ…?」

 その彼とは、いつ別れた?いつからJは一人で仕事をしていた。初めて、実際に人を手に掛けたのは。

「ウ、ゲェ…っ。
 ゲホ…っ、オェェ…っ」

 突然の嘔吐感、身を屈め、口を覆って。
 そうだ、初めて殺したのは、彼を、だ。
 俺たちは彼の慰み物になることに、心底疲れていて、それが憎悪だと分からないほどに彼を憎んでいた。10にもならない子供達ばかりがそこにいて、彼の相手をさせられていた。生きる術、それに僅かな食事と引き換えに。

「…あぁ、わかった。
 俺が忘れていたのは、これだ…」

 育ての親を、自ら殺した。その理由が、毎日のように行われていたレイプだったのだ。忘れていたかったのは、どちらの記憶か。それは、J自身にも分からなかった。


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