Jは死体の傍で蹲っていた。両肩を抱きしめて、震えていた。
“またか!”
咄嗟にキッシュはそう思い、傍に駆け寄った。声を掛けながら、ゆっくりと床から浚う。バスローブの胸元を掴んで、Jは、何かを呟いた。
首を傾げ、Jの口元を注視する。
「…なんだ?」
「思い…、出した」
「…そうか」
そっとベッドの上に下ろしてやった。いつの間にか、キッシュに全霊の信頼を置くようになったJ。根源の怯えは未だ残っているものの、傍によってもビクつくことはなくなった。
体を離そうとすれば、引き止めるようにバスローブを握る手に力を込める。その直後にJは自分の所作に気がついて、慌ててその手を離した。
「ス、スマン」
「いいさ。
…それで、話す気はあるのか」
どちらでも構わないがとJを見つめると、小さく喉仏を上下させて、口を開いた。
まるで、声にすることでそれが現実になるとでも言うかのように。
おかしな話だ、Jがこれから話そうとしていることは、昔確かにあった出来事なのに。
だが、それは嘗てキッシュも経験したことのある感情だ。自分の行った殺戮―たとえそこが戦場であったとしても、殺戮には違いない―を、他人に話すにはとても勇気のいる行為だった。普通の神経をしていれば、人を殺した事を誇って語れるものではないだろう。
「俺の最初の“仕事相手”は、養父だった…」
それは、同時に師匠でもあった相手。そして、奪略者だった男。
Jから、何もかもを奪ったのは養父だった。Jにナイフをくれたのは、確かに実父だったが、借金の形にJは売られた。養父によって殺し屋として育てられ、それ以外の何も教わらなかった。
いや、もう一つ教えられたもの。それが、男の咥え込み方だった。Jは他の義兄弟達と同様に、養父専属の情婦として扱われていたのだ。
それは、随分と過酷なものだった。初めてJがベッドに呼ばれたのは、8歳になった頃だった。温かい食事と布団を与えられ、充分に養父に懐いた頃だ。発展途上にあった幼い身体は、余す所なく穢された。身体を苛む痛みに涙を流すJに、養父は優しく接した。夜の彼とは、全く別人のように。
そして、Jは夜の出来事を日常から切り離すことを覚えた。初めの内は、そんなに頻度も多くはなかった。思えば、代わりに義兄弟達が餌食になっていたのだろう。
訓練と、温かい食事、そして、養父のベッドでのみ見る悪夢。それがJの過ごした少年時代だ。現実から逃避し、どこか薄ぼんやりとした印象のその頃は、Jにとって最も辛く最も安定した時だったのかもしれない。日々に、変化がなかった。
しかし、腕を上げ、養父が実戦に入る事を考え出した時にそれは起こった。
Jと最も仲の良かった少年が、自ら命を絶ったのだ。養父からの虐待に、耐えかねての行為だった。彼はJと同じほどに腕が良く、また、人並み外れて容貌も良かった。その分養父の相手をさせられる事が多く、心身ともに疲弊しきり、半ば壊れかけていた。恐らく、心が強すぎた事が原因だったのだろう。Jのように、早々に現実を放棄していれば、そんなことにはならなかったかも知れない。
彼は自分の命を絶つことで、養父の支配から逃げ出した。食事を取れなくなり、或いは訓練で酷い怪我を負い、いつの間にか死んでいく義兄弟達は何人かいた。しかし、目の前でナイフで喉を捌いたのは、彼だけだった。
“お前はいいね”、そう言って死んだ彼の血を浴び、Jは現実に帰ってきてしまった。生きる事を拒絶したくなるほどの、苦痛に満ちた現実に。
「俺は漸く正気に返り、同時に狂気に犯された。
あいつを殺らなきゃ俺が殺られる、そう思い込んじまったんだ」
それは近い将来実際に起こったかも知れないし、Jの強迫観念に過ぎなかったかも知れない。それはもう分からないことだ。少年が死んだその日、Jは養父を刺し殺した。
それはあまりにも呆気ない幕引きだった。Jの腕は疾うに養父を凌駕していた。少年が命を絶ったそのナイフを養父に突き立てたまま、Jはそこから姿を消した。
初めて養父に犯されてから、5年もの月日が経っていた。
「…俺は、それから随分と流れたよ。
あっちこっち歩いて、気がついたときには知らない街だった。
もう、飯をくれる奴はいない。自分で食わなきゃならなかった。
懐に抱いてたのは、あのナイフだけだ。できる仕事なんざ、限られてる」
伝手もない、しかし、血生臭い匂いは嗅ぎ分けられた。養父の家に出入りしていたような人間を探せばいい。そこで仕事を得た。その場所で、初めて知った事があった。
Jは、彼の義兄弟達の中でも異質な存在だったと。Jの同期たち、いや、弟の内の何割かさえ、既に仕事をしていたのだ。Jは、養父にとって宝玉のようなものだったのかもしれない。時間をかけて磨き上げた、最高の。
「知るには、遅すぎた。
感謝をするには憎みすぎてた。抜け殻みたいだった俺には、気がつけなかった。
あいつが言った“いいね”という言葉。それは、俺の待遇に関するものだった…」
「J…」
そうと知ったとき、Jは記憶を失った。養父を殺したという事実、養われていたという事実。その数年間を、Jは抹殺した。
「思い出そうとしていたんだ、お前がいるなら多分大丈夫だから。
それが、忘れていた全部だ」
長く長く、Jは話していた。話し終わると、疲れたようにキッシュに凭れかかった。
「口にしてみれば、そう大したことでもねェな…」
「…そうでもないさ」
キッシュはそっとJの肩を抱いて、眦に口付けを落とした。
涙に濡れたそこは、僅かに塩辛かった。
□■□
Jはキッシュの腕に抱かれて寝た。性的交渉はない。ただ、キッシュはJを抱きしめていたのだ。Jを落ち着かせるためだけに自分の眠りを犠牲にしたのだ。
Jはそれを知っていて、キッシュの慰めを甘受した。自分よりも一回りも年下の男に甘える、そのことに対する拘りは、キッシュに飼われているうちになくなっていたから。一人で過ごしていた十数年の自由よりも、キッシュと共にあった一ヶ月ばかりの不自由の方がJにとっては満ち足りていて。
恐らくそれを認めることはJにとって命取りとなってしまう。キッシュが仕事場である戦場に行くまでの関係だ。知っていながら嵌り込んだ自分には、彼の庇護を出て生き延びる意思はないのだろう。ぼんやりと夢現を漂いながら、Jはそれを認めた。
Jにはもう、キッシュのいない日常は考えられなくなっていた。
「J、お前、どうする気だ…?」
静かなキッシュの問いかけ。Jの答えは求めていない、囁くような声。剣だこのできた指先が、Jの髪を撫でた。
Jを連れて行くことはできない。しかし、置いていくこともできない。檻から放しても生きていけるだろうと思ったからこそ、囲う気になったのだ。こんな短期間で、Jが自分に懐くとは思っていなかった。
どうするか。
決断の時は、確実に近づいていた。
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