BLUE-CAGE 3

 シルビアとラウが帰った後、Jはキッシュを見られなかった。先ほどの、シルビアの言葉が耳に残っている。

『あぁそうだ、Mr.Jをどうするんだい?』

 何か言いかけて、途中で止めたキッシュ。本当に、どうする気なのだろうか。2週間後には、居なくなってしまうくせに。
 そうは思えども、自分からは怖くて訊けなかった。切り捨てられるのか、繋がれたままなのか。待っていていいのか、いけないのか。恐らく、答えは後者だ。
 分かっているからこそ、自分から引き金など引きたくはなかった。せめて、引導はキッシュに渡して欲しい。飼い始めたのは、キッシュの方なのだから。
 今、キッシュは冷めてしまった珈琲を飲んでいる。ラウの置いていったアタッシュケースを開き、中の道具を吟味しているらしい。時折、刃の銀が光を反射してJの眼を差した。いつものように、ベッドの上からその背中を眺めている。Jが自分からキッシュに触れる時など、稽古をつけてもらっている時の外、ありはしなかった。
 いつだって適当な距離をあけて。それはキッシュの眼差しが課してきた事でもあり、J自身が自分を戒めた結果でもあった。近寄れば近寄るだけ、離れ難くなる。そう思い始めた時点で既に遅いのだと言う声は、二人ともが揃って耳を塞いだ。離れなくては、いけないのだから。

「…J。
 ちょっと、出かけてくる」

 ふらりと立ち上がったキッシュは、Jにそう告げて玄関へと向かう。当然のように後をついて来たJは、玄関口で、今日は帰るのかと訊いた。
 暫く考えたキッシュは、無言で首を横に振る。冷蔵庫の中のものは好きに食べていいと言われ、素直に頷いた。
 いってらっしゃいというJの言葉に、キッシュは聊か驚いて、口の端に笑みを咲かせた。

「いってくる」

 パタンと音を立てて、Jの目の前で、扉が閉まった。

□■□

 ベッドの端で蹲って寝る。キッシュが同じベッドにいたのは、数えるほどしかない。Jに触れないキッシュは、いつもソファで眠っていた。Jをソファに追いやってもいいはずなのに、一度もそんな素振りは見せなかった。
 Jはキッシュがベッドに来ない事を知っていて、尚端で眠っていた。来て欲しいという無意識の行動なのかと分析したこともあったが、過去を思い出した今、これは刷り込まれた自己防衛の行動なのだと知れた。他人が同じ部屋で眠る時は、ベッドを空けておく。殴られる回数が、少なくなるから。
 今ではそんな必要はないとわかっていても、習慣になっているらしく真ん中で寝ようとするとどこか落ち着かなかった。
 キッシュのいない今、それでもJは端で蹲っている。なんだか寝付けないまま、夢と現実の狭間をうろうろしていた。そんなときだ。
 がたりと、窓が鳴った。
 キッシュの家の窓は、鍵を掛けないままになっている。どうせ侵入者が来るのは窓か玄関で、硝子を割られるくらいなら大人しく入れてやる方がましだというキッシュの考えからだ。普通入れないようにする事が前提なんじゃないのかというJの疑問は、次のキッシュの言葉で霧散した。
 がたりと鳴った窓から、ひんやりとした夜気が流れ込んでくる。今夜はキッシュがいないのに、気の毒な奴だとぼんやりとJは思った。
 殺された殺気、恐らく熟睡していたら、気がつかなかっただろう。Jであったなら。キッシュが相手だった場合、鉄鍋をお玉で叩きながら入ってくるに等しい自己主張だ。この程度で暗殺に来たわけか。
 内心溜め息をついたJは、最初の一撃―これはナイフによるものだった―をかわして、身を捩って相手を腕を拘束した。ばさりとシーツを跳ね上げて、後頭部を強打する。手にしているのは、愛用のナイフ。柄の底で首筋を打って、意識をなくした事を確認した。
 キッシュに相手をして貰ううち、随分と体術が上手くなったらしい。軽く上がった息を整えて、さてどうしたものかと思案する。殺してしまってもいいが、ベッドを汚されるのは嬉しくない。一人で一日中死体と一緒にいるもの嫌だ。
 取り敢えず、風呂場にでも繋いでおくか。
 生かすか殺すか、それはキッシュが決めることだ。
 普通入れない事が前提なんじゃないのかというJの問いに、入れた方が賞金を稼げるだろうと答えたキッシュ。多分、殺さずに引き渡すのだろうけれど。

「さって、手錠と鎖があったよな」

 嘗てキッシュが持ち出してきたもの。現在Jを繋いでいるものと同種の、頑丈な物だ。引き出しを幾つか漁り、目的の物を探し当てる。取り敢えず両手を輪で繋いだJは、バスルームまで相手を引きずっていって、金属製の手摺に繋いだ。短く詰めた鎖のせいで、万歳をするような姿になっている。
 Jは相手からシーツを剥がし、自分の身体に巻きつけた。晒したままの脚が、寒かった。
 明かりの下に表れたのは若い男で、歳はシルビアと同じほどだろうか。チョコレート色の肌と髪の男の顔に、Jは見覚えがあった。嘗て、同じバーでジョークを交わしていた男だ。キッシュに手を出すのは止しておけと言ったのも、確かこいつだったはずだ。

「ジーザス…」

 なのに何故。
 呆然と男を見下ろしている。Jは相手をメグと呼んでいた。勿論本名ではない。マーガレットという亡き恋人の似顔絵を持ち歩いていたことからつけられたという。本当かどうかは知らない。ただ、Jは男をメグと認識さえできれば問題はなかったから。
 起こすべきか、このままにしておくか考える。ズルズルとシーツを引きずって傍に寄り、メグの身体を探って武器の類を全て取り上げた。大振りのダガーが一本と、小さめのナイフが数本。逆棘のついている細いチェーンも見つけた。えげつない、とJは眉を寄せる。それらをテーブルの上に並べてから、再びメグの元に戻った。
 蓋を閉めたままのトイレに腰をかけて、じっくりとメグの顔を観察する。最後に会ったときより、少し痩せた気がする。尤も、そのときの明かりは今のように不躾なものではなく、薄ぼんやりとしていてその全てを照らし出せていたとは到底思えないけれど。

「…ぅ…」

 小さな呻き声。そうだった、メグの声はとてもとても低い。忘れていたと、苦笑を浮かべる。そういえば、キッシュに飼われ始めてから、それ以前の事をあまり思い出さなくなった。一体、どんな生活を送っていただろうか。
 昼間は眠り、日が沈んでから起き新聞を読む。バーに向かい酒を飲み、仕事仲間と話をし、或いはカードゲームに興じる。女を抱く。思い出す価値もないような日常だ。
 やれやれと頭を振ったJは、意識がはっきりし始めたらしいメグを眺めていた。

「大丈夫か、手加減無しに殴ったが。
 眩暈がするかも知れない」

 メグのランクはJと同じか、それとも下か。暫く仕事をしていなかったから、今はどうかなとJは考え、自分は兎も角メグが復帰することはないのかも知れないと眉間に皺を作った。まだ残っている仲間を思う気持ちが、今すぐにメグを解放してやれと訴えている。けれど、Jの9割以上を占めているキッシュへの忠誠がそれを良しとしなかった。
 葛藤というほどでもない迷いは常にJを責めてているけれど、今はまだメグの手錠を外してやることは出来ない。いや、今ではもうと言った方が正しい。Jは鍵の在処を知らなかった。手錠にしろ扉にしろ、鍵などJの手元にあるはずがない。全てはキッシュの意のままに、だ。そういえば、家捜しすらまともにしていない自分に気がつく。初めから、キッシュに歯向かう意思などなくなっていたから。

「…え、J?」
「…おう、久しぶりだな」
「なんだよ、アンタ、生きてたのか!?」
「あぁ、生憎とな。
 今はキッシュのペットだよ」

 ジャラリ、とシーツの裾から足を出して見せる。黒い金属が嵌っている。長く長く、鎖が伸びていた。
 『Jがまさか』と目を見開いたメグは、肩を竦められて愕然とした。スマートな仕事で、Aランクに位置していたJが、よもやターゲットに飼われていたなどと、易々と信じられるものではない。

「…でな、お前を捕まえたのは俺なワケだ。
 俺はこんな身の上だから、お前を逃がすわけにゃいかねェ。
 悪ィが、覚悟決めてくれ」

 できる事があれば、やってやるよと投げやりとも思える声をかける。
 黙ってJの言葉を聞いていたメグは、不安そうに自分の繋がれた腕を見上げて、それから再度Jへと視線を向ける。
 唇を噛み締めているメグの身体が小刻みに震えだし、それはJの言葉が事実だと受け入れた事を表していた。

「な、なァ…っ。
 俺を解放してくれよ! そしたら、アンタも連れて逃げてやる。
 アンタの足枷くらい、俺の腕なら開けてやれる。
 だから…!」
「…悪いな」

 冷ややかにも聞こえるJの声は、しかし苦渋の満ちた表情から、決して平然と言い放ったわけではないと知れた。もし、これが一週間前だったなら、Jはメグについて逃げていたかも知れない。だが、今となっては。

「手懐けられたっていうのかよ…!?
 アンタ、誰にもシッポ振らなかったってのに」
「…必要がなかった、それだけだ。
 お前にはわかんねーだろうよ、俺の気持ちは」

 圧倒的な力の差を見せられ、さらに追い討ちをかけられ。
 かと思えば、優しく慰められる。指一本触れない、紳士のような態度に変わる。翻弄され、気がつけば気を許してしまっていた。
 最早、キッシュなしでは生きている意味もない。
 捨てられたならば早晩、Jは野垂れ死ぬだろう。

「そんな…っ。
 なァっ、頼むよ、俺だけでも逃がしてくれよ…!」
「無理だ。俺は鍵を持ってない」

 絶望的な答え、メグはチョコレート色の顔を歪め、ボロボロと泣き始めた。
 その様を、哀れに思う。
 あの晩、Jも同じような絶望に襲われていたのだから。

「酒でも?」
「…っ、ロックのバーボン」

 それでもしっかりと主張をしてくるメグに、いい性格をしているとJは笑った。キッシュがいないからこそ、こんなサービスをしてやれる。
 悪戯に恐怖を長引かせているという後ろめたさから、Jは飲んでいいと言われた中でも上等のバーボンを出してやった。
 カランと、Jの手の中でグラスが鳴る。両手が使えないメグの口元にグラスの縁を宛がい、ゆっくりと傾けた。
 唇の端から零れた琥珀、それでも幾らかは口に入っている。
 喉が上下する様を見て、少しグラスを引いた。

「なァ、アンタ、口移しで飲ませる気、ねェか」
「は…?
 なんだ、あんまり怖くてどっかイカレちまったか?」
「違う…!
 俺は…、前からアンタのコト…っ」

 おいおいよしてくれ。
 メグの告白にJは天を仰ぎたい気分になった。もう一ヶ月ばかり仰いでいない空が、久々に見たくなる。
 何が悲しくてこんなごつい男に惚れようというのか。それも、メグのように体格にも才能にも容貌にも恵まれた、いい男が。
 解せないと唸っていると、どうせ最後なのだからと哀願を滲ませた視線を向けられた。
 勘弁してくれと訴える心を捻じ伏せて、Jは嘆息をする。
 グラスに、唇を当てた。

「…ん…っ」

 こくり、とメグの喉が鳴る。折角冷えたアルコールも、人の口内で温んでいるだろうに。不味そうだ、とJは眉を顰めた。
 離そうとした唇を舐められて、Jの背中を悪寒が走った。当然だ。Jは同性との行為を好むタイプではなかったのだから。キッシュ相手のそれが、どれほど特別なものなのかと、実感させられる。
 かといって、キッシュに抱いている感情が恋愛のそれかと問われれば、Jには頷くことはできないだろう。恋をしている、そんなものではないようなのだ。感情の名前は漠然としすぎていてJには上手く表現ができなかったけれど、キッシュが必要だということだけははっきりしていた。
 あぁ、そうか。キッシュに捨てていかれるくらいなら、役所に行って幾らかの金になった方が、まだキッシュの役に立てるかな。
 ぼんやりとそんな事を思う。檻の中に入れられるにしろ、人生が終焉を迎えるにしろ、以前の生活に戻るよりはマシな気がして。
 相当イカレてると自嘲して、メグとの交接を解いた。名残惜しげにメグが口を開き、Jを見上げている。

「…嫌じゃねェの?」
「嫌だけど? まぁ、この先どうなるかわかんねェ身だしな」

 お互いに。
 瞼を僅かに伏せたJを、訝しげにメグが見つめていた。


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